「高い城の男」を観て、映画とテレビドラマの違いを考える

 アマゾンプライムで配信している「高い城の男」全40話を見終わった。ストーリーが歪み始めるところも含めて、原作の不可思議な雰囲気を再現していて面白かった。テレビ的なドラマを40話もフルで見通したのは初めてかもしれない。
原作は、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの1962年の小説。ディックと言えば、リドリー・スコット監督の「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で知られるが、他にも17世紀に大ヒットしたジョン・ダウランドのリュート歌曲「Flow, my tears」がモチーフとなった「流れよわが涙、と警官は言った」が有名だ。とにかく多作でエネルギッシュな作家だ。ジャンルは違うが、横溝正史に似ていると思っている。多くのSF作家の中でとりわけ強い個性を放ち、後に日本アニメの土台となったサイバーパンクSFに大きな影響を与えた。
ちなみに「高い城の男」はヒューゴー賞をとった硬派なSF長編。第二次大戦で連合国が負けて、ナチスドイツと日本がアメリカを支配しているという一風変わった設定だ。ストーリーは、アメリカ国民がレジスタンスとして抵抗する中、ドイツと日本が市民への圧力を強める。そうした中、「高い城の男」が作ったとされる謎のフィルムが世界の土台を揺るがし始め、新しい世界の構築に向けて歯車が動き出す。
全体で40時間近くあり、最初の最後の緊迫した場面は映画のような迫力を感じた。照明や色味もいわゆる「シネルック」だ。映像表現にテレビっぽさは少ないと感じた面もある。ただ、途中の長々と展開するストーリーを観ていてTVドラマ風だと感じた。具体的に言うと、会話シーンが大半を占め、ワンショットを多用したタイトな画が多い。広い画角の撮影では大勢のエキストラや美術、照明や音響など膨大な準備時間と撮影時間を要する。映画的演出は難しいと判断したのだろう。
会話に重きを置いた点もテレビ的といえる。映画の場合、決定的に伝えたいことは言葉にならない画面の中の動きや変化で表現する。画だけで表現することは誤解を浮く可能性を秘めている。例えば、テレビで描かれる戦争シーンは、表面的で再現ドラマ感をぬぐえないことが多い。戦闘が行われたという事実を伝えるのが目的だからだ。ところが、映画の場合は戦争が持つ意味を幅広く伝えるためディテールにこだわる。そうした演出により観客がまるで戦争を本当に体験しているような没入感を生み、恐怖心や闘争心など感情や感覚に訴えかける。スピルバーグの映画を観ていてわくわくさせられるのは、その辺の映画らしさを追求しているからだ。


映画的とは、ディテールへのこだわりや情報量の多さ、それらが画面上でハーモニーを奏で緊迫感を生んでいることだと思う。音楽に置き換えるとわかりやすい。コント、テレビドラマ、映画を例に挙げる。コントの場合、リズム感が重要だ。緩急を織り交ぜてテンポよく話を進めることで、意外な発言や展開、最後の落ちを際立たたせている。メロディは台詞やストーリーに当たるだろうか。ドラマでもメロディやリズムが重視される。ただ、ハーモニーへのこだわりは薄いと感じる。


 小津安二郎監督の映画は表現の違いを理解するのに役立つ。小津映画は日本家屋や旅館、料亭などの部屋で話が展開することが多い。コントやドラマでも同じ設定は多いが、三者には違いがある。照明へのこだわりは、コント<ドラマ<映画になるにつれてこだわりが強くなり絵画に近くなる。人の動きや物の使い方へのこだわりは、ドラマ<コント<映画だろう。テレビだと話者以外は映さないか目立たせない配慮がある。小津映画では親・子・孫が一堂に会する場面で家族各々が全く違う動きをしている。各々が絶妙なシンクロ具合を見せつつ本当の家族というリアリティを醸している。逆に血のつながらない者が同じ仕草や振る舞いをすることで内面の違いを強調していることも多い。
ドラマもコントも説明的で一面的な表現が多いが、映画は情報量が多く多面的で、視聴者が色々な解釈をできるように同時に多くの要素を盛り込み、それらが複雑なハーモニーを奏でている。映画に色々な解釈が成立する所以だ。
あと、音へのこだわりは映画ならではだと思う。人の声より物音が意味を持つことも多い。ホラー映画がわかりやすい。急に静かになり物音が聞こえてきたら、恐怖がせまっていることの兆しだ。TVドラマだと役者が逃げまどいながら叫んで、殺人鬼も怒声を浴びせるという展開になりがちだ。怖さはない。世界中でホラー映画が多くつくられるのは、映画的な表現がしやすいからだ。ドラマでは表現として難しい。表現をそぎ落として丸くしたのがドラマといえるかもしれない。


ミヒャエル・ハネケ監督の「ファニーゲーム」というホラー映画がある。ホラー的な音使いに頼らず、人間同士のコミュニケーションを通して鳥肌の立つような恐怖を表現した稀有な映画だ。サイコパスをリアルに表現したのはこの映画以外に思いつかない。「ファニーゲーム」に登場する殺人鬼は一見優等生風の普通の若者だが、他者への攻撃性や、他者を服従させる行動や欲望に際限がなく、そこに倫理や理性を挟む余地はない。陰湿極まりないのだ。感じるのは、相手を服従させるために張り巡らす行動と計算高さだ。殺人鬼の若者は囮として監禁した家族の心理の先を読んで行動し、被害者を肉体的だけでなく精神的に追い込んでいく。途中から、一見爽やかそうな殺人鬼が画面上に存在していると気分が悪くなるのだが、映っていない場面ではかえって殺人鬼の存在を意識しさらに気落ち悪くなる。映画を知りつくした巨匠ならではの妙技と感じた。
韓国映画の「悪魔を見た」も他者への攻撃性や支配欲を徹底的に描いた作品で、この作品もかなり後味が悪い(笑)。ただ、「ファニーゲーム」のように一見普通の人間が見せる狂気に比べると迫力に欠ける。よっしゃ気合を入れて怖がらせるぞという意図がどうしても伝わるのだ。一見普通というか好印象な人が普通の状態で出す感情表現が狂っていたら、それは一見無さそうだけどあり得ると感じるから怖いのだと思う。


 「高い城の男」に話を戻すと、導入部と結末以外はTVドラマ風だが、難解で長い原作をわかりやすく伝える意図もあったのだと思い好感を持った。不思議な設定、激情型で哀愁を漂わせる多くの登場人物は迫りくる死期を漂わせていて、ディック作品に一貫する「らしさ」が表現されている。ディック作品を理解しているなと感じた。ディックもあの世で喜んでいるに違いない。